純剛の由来について

この「純剛」という熟語は,辞書にはない言葉である。最初に使われたのが,大和志雄氏(大正6年卒)の作詞による,応援歌の1節「純剛正気の風受けて」に見られている。山本梅雄氏(大正8年卒)は「北海道教育史」の中で,「純剛の精神とは何ぞ。一言にしてこれを表せば,清く明るく強き心であり,本校創立以来一貫した公明正大,質実剛健の校風である。この至純至剛なる校風は,はじめ何もこれを表す適当な言葉を持たなかった。ただ精神的に育まれて年とともに力強いものとなってきたのである。」と,自然に生徒たちの間から醸成されていった気風であることを説明しこれが前述の応援歌によって端的に表されることとなっていったとしている。

そして,「純剛の精神こそは北師の渾然たる精神的一致,より自然に生まれ成長し来たった意義深き真の価値を有するものである」として,北師の伝統的精神の中核を「純剛」によって説明している。また,元会長梶浦善次氏(大正14年卒)は,北師19号の中で「ところで同窓を互いに結びつけるもの,同窓と母校を結ぶ紐帯は,「純剛」の精神,「純剛」の気風であると思う。これについては多くの解釈がなされるだろうが,「純粋にして正直(せいちょく)かつ強靭な志操」と理解する。」と述べている。

本会の機関誌「純剛」第1号は,1970年(昭和45年)1030日に発行されている。このときの名称は「北師同窓会だより」となっており,「純剛」の名称に変更されたのは,2年後の第5号からである。この号の中で,当時会長の二本木實氏は,巻頭言で「北師同窓会だよりを,この号から「純剛」と題することにした。それは,古い先輩たちの魂の古里をたずね,同時にわれわれの現在を律し,さらには後に続く者への,唯一の遺産としたい願いである。北師魂といわれるものが,いつの頃から純剛と端的に表現されることになったのか,その時代を知らず,ましてやその提唱者を知らない。しかし代々語りつぎ,引きつぎ,この純剛のもとに和し,歌い,歓び,涙してきたのであった。読み人知らずの古歌が,作者さえない民謡が,その故にこそ人の心をゆさぶり,永く永く歌いつがれているように,この純剛もまた,いつの時代にか誰かが唱えたものとしても,それはその人1人の発想ではなく,北師の飯を食った者の,帰せずした共感の叫びであったはずである。だからこそその提唱者の名はかくれ,純剛だけが生きつぎ,北師とともに育ち,さらには北師を育ててきたものであろう。-以下略-」と述べている。

同じく同号で,当時の監事の斎藤七郎治氏も「純剛」と題して,「 同窓のシンボルマークとして,「北師の旗」ができた。そしてその旗の掲げられる所必ず「純剛歌」がうたわれる。純剛は,まこと同窓の絆でありシンボルである。ところで,「純剛」という熟語は,現在の日本の辞書の中にはない。いつか二本木会長が「辞書をひいたが見当らなかった。」と言われたことがあったので,念のため,当ってみた。大槻さんの大言海に無い,角川漢和辞典に無い,ぐっと近代性をもった金田一国語辞典,長沢漢和辞典にも無い,無いということが解ってわたしは次のように考えた。無から有は生じない。この語が生まれる精神的風土というものがあったからこそ言葉が出来た筈であると。

そしてこの精神的風土というものを,このように観た。1つは,同窓の篤学山崎長吉氏著の「古武士的校長列伝」の中に感得をさせられるように,むかしの師範入学者の中には,仙台藩会津藩をはじめ幕末に当って,徳川300年の恩義忘じ難く,官軍と一戦を交えた東北諸藩の武士の家に生まれたものが,かなりの数に達していたことである。これらの子弟の中に育ぐくまれていた反骨敢斗の精神が寮生活の中に浸潤していって,気骨に満ちた「剛」に昇華した。もう1つは,朔風の中,凛然北辺の凍土に挑んだ開拓魂というものが,閥に頼れず,財に恵まれず,わが身一つに頼るほかない孤高の独立精神となり,それが多感な時代の感激と感傷の生活の中で温醸されていって「純」が生まれた。そして,はじめは「純にして剛」などと唱えられていたのが,情感漲って新熟語「純剛」を創り出したものであろう。かくて純剛という語が全寮一体,青春哀歓の中に語られ叫ばれ,伝承されてきたものと思う。

心あって言葉が生まれ,言葉あって歌が生れるもの,辞書にはなくとも,「純剛」の精神と歌はわれわれ同窓の血潮の中に脈々として生きてゆく。」と述べている。