北師の歴史▽本会の歴史

 北海道に開拓使が設置されたのは明治2年である。私たちの母校に係わることとしては,明治10年3月に公立第一小学校(創成小学校の前身)の中に,小学科授業法伝習生徒教場が開設されている。以後開拓も漸く進み,15年には札幌県立創成小学校に師範速成科が付設され,札幌県仮師範学校と称したとある。翌16年には札幌県師範学校と改称され,新しい校舎等が建てられて,充実が図られた。19年3月には北海道庁の設置にともない,庁立札幌師範学校となった。同年4月に師範学校令が公布され,9月17日には庁立札幌師範学校が廃止され,庁立北海道師範学校が札幌区北1条西3丁目に設置された。翌20年には北海道尋常師範学校と改められた。さらに明治30年には師範学校令が廃止され,師範教育令が公布され,翌31年に校名は北海道師範学校と再び改められた。以後この校名は大正3年に北海道札幌師範学校と改称されるまで続いているが,母校はその当初において,幾多の変遷を経たわけである。  

 その中にあって在校生は無論のこと,卒業生も初等教育の充実を目指して,情熱的な努力を重ねてきたわけである。師範学校令による北海道尋常師範学校の第1回卒業生5名は,そのまま附属小学校の訓導に任ぜられたとあることからも,その指導体制が徐々に整えられ,充実が図られてきたことが推察される。また,その開校の当初から既にその濫觴ありとされる教育研究会などの結成は,在学生徒も極めて少数であったためにかなわず,ただ同志が相集って研究せるに過ぎなかったとあり,その意欲の高まりを感じさせる。  

 明治30年1月に至って,その気運漸く熟し,在校生及び卒業生等合同して会を組織し,本部を母校内に設置し,「同窓教育会」と称して発足した。同会の規則によれば,その目的は,「会員の親睦を厚くし互いに知識を交換し,教育上の裨益を希図するにある。」また,「本会は在校生徒を以て組織し同窓教育と称す。本校卒業生及び本校職員に賛助を乞うものとす。」とあることから,この組織は在校生が正会員で,卒業生が賛助会員として構成されたわけであるが,ともにその充実を目指して運営に努めたのである。また,会員の知識及び相互の状況通報の機関として,「同窓会誌」を作成し,隔月に1回これを印刷して会員に頒布している。  

 明治36年となって,母校も卒業生を出すこと18回,卒業生総数も実に592名に達し,本道初等教育界に相当の重きをなすに至った。そこで1月,卒業生は母校の講堂に集って,卒業生のみの「北師同窓会」を組織し,発会式を挙行した。従来の同窓教育会は卒業生及び在校生によって組織されたものであったが,卒業生の団体が,「北師同窓会」を創立して「同窓教育会」から分立したために,在校生の団体は同年1月14日に「同窓教育会」を改めて「北海師友会」と改称している。

 

 明治36年1月9日付北海タイムスは,「師範学校同窓会 予記の如く北海道師範学校卒業生同窓会は,一昨日午前10時より師範学校内において発会式を行いたり。出席会員50餘名(内地方会員20名),来賓20名,一同着席の上創立委員長畑谷為蔵氏開会の辞を陳べ,仮議長の選挙を行ひ,畑谷氏当選し同会規則を議定し,幹事7名を選挙せり。」と報じている。当時の会の事業等については,記録がないため明らかではないが,講習会の開催,会報や名簿の発行,新入会員の歓迎会等を行っていたようである。  

 明治39年に母校は満20周年記念を迎えているが,その祝典について,当時の方針としてこの祝賀会は母校の職員と卒業生の両者が合同して,専ら其の計画を進めていて,在校生には何等の相談もなく,唯人夫か雇の如く命を受けて働きさえすればよいといった風が見られたことから,在校生が疑を問ひ,職員,卒業生,在校生の三者が一団となって行うべきと主張し,堂々と議に参じたとある。在校生の溌剌とした活動ぶりとともに,卒業生の存在と活躍ぶりも偲ばれるのである。  

 祝賀会は9月17日大講堂で挙行され,各界代表とともに,卒業生総代鈴木勝治(第1回卒業生),在校生総代筒井銀平も祝辞を述べている。明治44年には母校が創立満25周年を迎えているが,この時卒業生有志によって,北海師友会に荘司文庫が寄贈されている。記念式典では北師同窓会を代表して工藤金彦が祝辞を述べ,また祝賀会では卒業生と在校生が交互に感想を述べ,余興を行って,何時果てるともしれない盛況で,夜の11時にやっと閉会したとある。  

 大正8年には,北師同窓会が公益法人としての社団法人の認可を得,正式名称「社団法人北師同窓会」となった。  

 大正15年9月17日には母校満40年記念式が挙行され,保護者会と同窓会合同の祝賀会も行われた。昭和10年8月28日に「北海道札幌師範学校創立50周年祝賀協賛会」が組織され,卒業生村上壬平(明34卒)が会長に推されている。「記念日を明年にひかへたるを以て,各方面に互りこれが準備をはじむるに至れり。」とある。同窓会では同年12月,会報23号を祝典準備号として発行し,祝賀への対応を特集している。会員に対しては,3円60銭ずつの募金を始めている。当時の普通会費は,卒業後2円ずつを5年間納め,10円完納後は5年間休み,11年目からは年1円の特別会費を納入することになっていた。従ってこの普通会費と募金とを混同しないで納めてほしい旨,会報で懇願している。  

 昭和11年の母校50周年記念事業は,総額19,644円で祝賀会,慰霊祭,教育大会等の行事及び記念誌発行,北師会館移転,修養道場新設,記念植樹土地購入費用準備のほか,母校への歴代校長写真額縁,ピアノ,ラジオ,16ミリ映写機等12種20数点の寄贈が行われた。なお,記念誌によれば母校創立以来50年間の卒業生は,本科一部2,957名,本科二部995名,専攻科225名,簡易科60名,2種講習科70名,合計4,307名(内専攻科卒業生の重複171名があり,実数は4,136名)となっている。そのうち道内の小学校教員として在職していたのは,2,270名で,これは当時の道内小学校教員総数の1割9分であった。さらに母校での各種講習等の受講教員を加えると,実に道内小学校教員数の1/3が,母校で薫陶教養を経たことになるとある。  

 さらに卒業生は道内初等教育界の中堅として重きをなし,奏任待遇小学校長並びに教育行政の枢機にある視学の大半は,本校卒業生及び其の関係者を以てあてられる現状であった。尚大学,高等師範学校,各教員養成所,美術学校,音楽学校等に学ぶ者,文部省検定試験に合格する者も年々少なくはなかったという。これ等の卒業生は道内はもとより広く全国の各学校等に奉職し,育英を以て邦家につくし,又学術を以て貢献し,学位を授与された者もあった。実業界,新聞雑誌界或は行政官,各種議員,弁護士等になった者も多く,何れも高邁なる人格と識見により社会の信用を博し,輝かしい努力の跡を示していたとある。 

 また,同窓会としては,大正5年に会員の醵金によって,同窓会館「北師館」を建設するとともに,次のような事業を行って,広く教育界に貢献していた。

  1. 会員相互の親睦和合向上をはかるために,年1回総会を行い,又北師同窓会報を発行せること。
  2. 一般攻学の士に便宜を与えるために,小本正養成講習会,学術講習会を夏季その他の休養を利用して開催せること。
  3. 母校との連絡をはかり且つその事業を後援するために,或は臨時に後援会を組織し,或は在校職員生徒の慰安等を行えること等  

 さらに昭和11年7月には,南1条西18丁目にあった北師館の敷地を売却し,移転地として南21条西12丁目の土地522坪を,4,480円で購入することを決定している。これは母校が昭和4年に南1条西15丁目から,南22条西13丁目へ移転したことと関連している。  

 昭和15年に北海道女子師範学校が開設されたが,同窓会はその事業の後援を行っている。また,道内の3師範学校(札幌・函館・旭川)の同窓会の連合会を組織し,協力し合って教育行政や教育者の待遇改善等の要請活動を,当局に対して行っている。  

 当時の本会の組織は,幹事長1名,幹事8名,協商議員若干名と書記から構成されていて,まだ地方支部は正式に置かれていなかった。年1回の総会とともに執行機関である幹事会,議決機関である協議員会によってその運営が行われ,資産管理その他の事業が推進されていた。昭和16年には各市,支庁に支部が設けられ,本部幹事を兼ねた支部長22名が委嘱され,その他の事務幹事,会報編集委員も任命されて,本部・支部の組織機能が一段と強化された。  

 昭和18年に母校が専門学校に昇格し,北海道第一師範学校となったが,同窓会ではその後援基金として28,000円を集めその利子を奨学資金,教生指導費,母校連絡費等に充当して,充実に努めた。  

 昭和19年には北海道女子師範学校同窓会と併合している。 戦争末期及び戦後の混乱した社会情勢,教育界の態勢の中で,ほとんど正常な活動を続けることのできなかった同窓会も,敗戦直後の昭和20年9月には新入会員歓迎会,昭和21年に母校創立60周年記念事業を後援(募金総額14,256円)するなど,辛うじて事業を続けてきた。昭和22年11月には新定款を制定し,新たな時代にふさわしい抱負をもって再出発をすることとなった。  

 しかし不運にも新任の会長,副会長が事故のために辞任し,加えて物資食糧の欠乏とインフレの昂進,基本財産の封鎖等で,その再起の雄図も萌芽のうちに摘みとられる形となってしまった。  

 昭和23年4月,母校の大学昇格のための後援会が設立(会長高田富与)され,同窓会の再建はさておいて,全会員の熱烈な協力と援助によって募金活動が展開され,昭和24年8月までは専心この母校昇格の事業に力を傾注した。募金総額344,000円という当時としては巨額の資金を集め,大学誕生に貢献した。北海道学芸大学設立の財的母胎は,実に北師同窓会にあったといわしめる程の盛り上がりであった。なお,開学記念祝賀行事には,189,391円を寄贈している。  

 こうした同窓会員結集の気運によって,同年9月に新定款初の協議員の選出が行われ,会長高田富与,副会長山本梅雄,理事長古市銀蔵以下の役員を決定し,発展を期すこととなった。  

 会費も100円に増額し,会報兼会員名簿も復刊した。昭和31年の母校創立70周年記念には,芸体センター資金として,57万円を寄贈した。  

 昭和32年には北師会館建設資金の募金が開始された。一人3,000円で総額1,200万円が目標であった。会館は昭和35年7月起工,11月に竣工したが,募金状況がはかばかしくなく,開館は昭和38年8月となった。この時点で募金は1,000万円に達していたが,所要経費は1,700万円とふくれあがり,止むを得ず敷地の一部約200坪を売却し,その資金に充当した。  

 昭和30年代に入ってから,母校の敷地,校舎等の狭隘,諸施設の老朽化などから,岩見沢分校との統合が話題となってきた。この問題は紆余曲折,大いに揺れ動き,同窓会でも昭和39年に統合反対の決議を行ったり,活動資金の募金を行ったりして対応した。  

 昭和41年,母校80周年記念事業にも協賛し,図書充実資金として50万円を寄贈し,同窓会主催の大祝賀会を開催した。  

 昭和51年の母校90周年記念事業には7,253,000円を醵出するとともに,グランドホテルを会場に式典,祝賀会を行い,記念誌発行等を協賛した。母校の移転問題は,昭和52年に単独整備の線で大学の意志決定がなされたことから,昭和53年に「札幌分校及び附属学校等整備拡充期成会(会長地崎宇三郎)」が発足し,副会長には中島好雄北師同窓会長も参加して,母校等の移転を支援した。あいの里への母校移転事業と,昭和61年の母校100周年記念とが重複することとなったため,同窓会では58年からその準備にとりかかった。昭和60年には記念事業に対する協賛金の募金を始めた。一般会員6,O00円,管理職会員14,000円,退職会員3,O00円以上として醵出を求めた。主な事業は新講堂の緞帳製作費約2,OOO万円,百周年記念誌刊行助成約1,000万円などであるが,両事業とも意義高く完了することができた。式典並びに祝賀会は,母校の移転が昭和62年であったため,新校舎落成祝と合わせて,昭和62年9月に,母校を会場に盛大に行われた。  

 昭和62年に母校そして本部が,次いで63年附属中学校,平成元年附属小学校,ふじのめ学級等があいの里の新キャンパスに移転した。これを契機に母校は芸術文化課程の設置,保健管理センターの設置,大学院修士課程設置さらに冬季スポーツ教育研究センター設置と,目を見張るばかりの充実,発展期を迎えた。